「達磨大師の神」と話す 5

## 達磨に うかがいます。

洗随経や易筋経というのは、動功ではなく、お経か、

または訣のようなものでなかったのかと私は思ったのですが、

それを弟子に渡したのではないですか?

私が座り続けて修行をして、座り続けるためには、

こうすれば座り続けることが出来ますよという極意を、

洗随経や易筋経として弟子に渡したのです。

なにも動功としての洗随経や易筋経、

動く方法(八段錦や武術)を渡したのではありません。

座ったままで出来る極意を渡したにもかかわらず、

皆の者たちはそれが出来なかったのです。

身体を動かして、そのことを可能にするしか方法を見つけられなかったのです。

私は座ったままで喜んでそれが出来たのに、

彼等は、そのことを座りながらできなかったので、

実際に可能にするには身体を激しく動かすしか方法を見つけられなかったのです。

私は、その方法について黙認しました。

それはそれで、渡された者たちが方法を見つけるしかありません。

私は、自分の修行のために開発したに過ぎませんでした。

私は自分の身体を持って、喜びの気持ちで経を創ったのです。

それで、皆の者に拡がるのであれば、

私だけの功法であってはいけないと思っているので、これを黙認しました。

しかし、身体を動かしたところで、

洗随経や易筋経は叶うことはありませんでした。


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