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先週、大分宇佐神宮に呼ばれて行ってきましたが、その折

山の神が祀ってあるところが有りました。

大山津見の神が御祭神とだということでした。

山の神が女性であることは、よく知られていることです。

 

大山津見の神様へ
宇佐神宮の中の 山の神の神社にて

日本全国の山を司るどる神は、すべて女の神様ですが、これはどうしてですか??

雷神、風神、が男性の神です。
山に通う雷神風神は、男性の神です

山は動かず、女性が守り
男性は動いて、女性の元へ通う仕組みです。

 

宇佐神宮のご神木・楠より

本日はお声がけを頂きまして、ありがとうございます。

私のお預かりしている 力など当てにはなりませんが
あなたがには、宇宙の神々より、大いなる力が与えられています。
その力は極めて偉大なる力です。

私は、木の精を代表して、あなたがたに、我々の持ちうるすべての力を差し上げます。
地球上の自然植物、動植物、すべてに影響する力を 差し出しています
どうか、お持ち帰り下さい

あなたが、開発してきた商品、あなたが開発した功法、などなどすべての事柄に、良い影響を及ぼします。重要な事は、この樟の木から もらったなどと意識しないで下さい。

これは、入り口の役割をしている物質的なものですが、あなたにはもっと 偉大な次元の高い神々からの力が使える訳ですから、壮大な宇宙をイメージして、これらの力を使って下さい。

もっと 高くて 博い次元をイメージして下さい。

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人一倍敏感で感受性が強く優しい人は

エネルギーがないと潰れてしまうものだと思います。
共感性が高くて、優しいから困った事態を何とかしようと奮闘してしまうのです。
とある勉強会に参加して小学生の娘さんの話をされたお母さんがいました。
優しくて敏感な娘さんはクラスの友達を正しい方へ導こうと奮闘されていたそうです。
正義感、使命感が強くて、自分が皆を良い方向へと頑張っていたそうですが、それが通用していたのは低学年のうちだけで、そのうち自分がどんなに頑張っても無理で、かえって、鬱陶しがられるようになります。
そんなこんなでエネルギーを使い果たして
無力感によるものか、すっかり精神的に弱ってしまい
不登校気味になっているそうです。
方向性は正しいけれど、スキルもエネルギーもないから、上手くゆかず、空回りして燃え尽きてしまう
正しくても、力がないとなりがちなことです。
友達の悩み相談も同じようなことになります。
息子は同時期に二人の友達の悩みを聞いてきました。
以前より息子には悩みのある子が寄って来ていました。
なんか、危険だなと少しひっかかっていました。
そんなことは、してほしくありませんでしたが、相手が元気になってくれるのが嬉しいと喜んでいる姿を見ると軽く注意はしても止めなさいとも強く言えませんでした。
多分、言ったところで止めなかったと思います。
そんなに力があるわけでもない、ただの高校生がそんなことをしたら
しかも、人一倍敏感で共感性の強い子が悩んで苦しんでいる友達に寄り添い、何とかしようと頑張ることは
大変危険なことでした。
張志祥先生が唱えた中国元極功法の一部功法のテーマは、「心徳功」でした。
日之本元極功法の「階ひと」にあたります。
それが二部功法になると、テーマは「心徳功量」に変わりました。
日之本元極功法では「階ふた」です。
一言で言えば、
「功」は、修練をして力を着けること。
「徳」は徳を養うこと。
「心」は練功により着ける力の使い方の手法です。
この三つを社会生活の中で磨き上げていくのが修練の目的です。
特に「功」と「徳」は、車の両輪と言われていました。
「徳」が有っても、「功」力が無ければ、進んで行けません。
「功」が有っても、「徳」が無ければ、全く方向違いに進んでいくだけです。
「功」と「徳」が有っても、「心」を使うことが出来なければ、やはり、目的地には到達出来ません。
つまり修練をしていない者が、
お悩み相談をしたとしても共倒れになる可能性が高いわけです。
共倒れにならないまでも、とんでもないところに到着する可能性が高いのです。
(薬を飲んだりね・・・・)

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アメブロの「くるくる」さんの記事です。

それは進化なのか?劣化なのか?

まだまだ世の中には馴染みのない概念です。

ここ最近、認識されてきて、どうも、
    そういった人達が増えてきている   らしく
そして、カテゴライズされつつあるみたいです。
それは、進化した人類
はたまた、生き辛さを抱えるせいで
社会適応できない困った人になるのか?
どうなるのか?
はっきりとした答えはないでしょう。
しかし、自分の特性を理解して、それならそうで
どう生きていったらいいのか考えることが必要になります。
その特性を活かす道も必ずあるはずです。
繊細過ぎる人が増加傾向にあるようです。
神経が感受性が人一倍敏感な人々で、それ故に
傷つき易かったり、人の痛みを自分の痛みとして
必要以上に感じてしまい、神経をすり減らしたりと精神的な消耗が激しいのです。
多分、他の人より、受け取る情報量が多くて
普通、サラッと流すようなことでも
気がついてしまうから、知らなくていいことでも
分かって、しんどくなってしまい
結果、生き辛さを感じることになるのかな?
と、そんな図式が見えてきます。
ある人によると、これからの人類に必要な人達だと言われています。
本当かなー!!??
進化した人間だとも?
そうなのー???
例えれば、空を飛ぶ鳥の群れ
逆V字に飛ぶ鳥の群れの先端には
群れの中の選りすぐりの個体がナビゲーターをしているそうです。
危険察知能力が高い、超敏感な個体
群れの運命、生死を託せるほどの
ただ何となく、そうして飛んでいる訳ではありません。
それと、同じ存在になりうるのだとか?
まあ、すでに色々な方面で従来ではなくなってきています。
これから、どうなってゆくのか?
本当に不透明な時代になっています。
繊細で優しくて敏感
普通に生活しているだけで傷だらけになってしまいそうですが、
こんな世の中を舵取りするために生まれてきてくれた人々?だと言われています。
息子はまさに、そんな傾向を持ちますが
正直、そんな壮大な社会の救世主的な
舵取り役のようなことからは程遠い所にいます。
むしろ、その特性のせいで
すごーく、すごーく困ったことになったので
どうなんだろうか?と思って、現在見守り中です。
たまたま、勉強していて、そんな子どもが増えていて
周囲との軋轢に苦しんでいることを知りました。
苦しさのあまり、解離を起こすとも・・・
解離とは自分の中で別人格を作ってしまうことです。
多重人格になるくらい、敏感な人は大変なんですね。
希望的観測にしても、人類に必要だから生まれてきたなんて言われていますが、途中で潰れてしまったら
元も子もありません。
本当に、人一倍繊細で敏感な人々が世の中を動かす時が来るのか?
どうなんでしょうか?
仮に、そうなったら、少しはいい世の中になるのでしょうか?
進化なのか、その逆なのかも謎です。
不思議な傾向だとは思います。

 

このように思っている人たちは大変な大間違いをしています。
全く違う二つの事柄を同様に考えて比べているからです。
その二つとは、
ひとつ目、正邪に対するセンサーです。
ふたつ目、外部からの力における耐性です。
確かに、自分の尺度で正しいと思っていることに対する敏感さは高いと思います。
これは、自分の尺度による正しい事のセンサーが敏感なだけです。
なぜ敏感か?
自分に力がないから、すぐ外部からのこうした力に影響されてしまうからです。
平均的な人が100のパワーを持っているとすると、
外部から10ぐらいのパワーがかかったとしても、大して影響はされません。
自分のパワーが20しかない人が、外部から10の力で押されたとすると、
大きく影響されて動揺するわけです。
そして潰れてしまう人も出てくるでしょう。
要は、自分に力がない為に、外部からの力に対してすぐ影響されることが、
センシティブだと大間違いされているわけです。

もちろん、劣化も劣化、人として大いなる退化です。

間近に迫っているアセンションに向かって、

この世の人々のこうした退化が、どんどんと広がっています。

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2018年10月23日(火)新宮修練舎15:00~17:00 講演

「心印」に戻りますが、「印」とは印鑑の「印」と理解してもいいのです。「心」はこ
こにある。では、自分の印鑑を押す。自分の「心」はここにあるというふうに迷わずに信じ
込んで、「心」即ち「我」であると。「我」がもともと存在して、「心」がきれいになる
まで修練すれば、間違いなく最終的に「我」が生まれてくる。「心」が鏡のようで、後天
になれば、鏡はいつも汚れます。汚れれば人間はいつも過ちを犯します。反省するという
言葉がありますが、しかし反省してもまた過ちを犯す。というように繰り返すのが一般の
人には多いのです。でも反省する心があれば、自分の鏡をいつも磨くことになるのです。自
分の磨きによって、きれいな心になります。これは一つの一般論で、汚れて磨いて、汚れ
て拭いて。ある程度修練すると常に過ちを犯す前からそういうことを防ぐ。誤ってから反
省するのではく、過ちを犯す前から自分自身でそういうことをしないというレベルがある
わけです。過ちを犯して反省する。過ちを犯す前から心がける。どうやってできるかと言
えば、修練者では、「浄定観運心(じょう てい かん うん しん)」の一番の「浄」を心がけ
ます。自分の心をきれいな状態で保てれば、自然と悪い考えが生まれてこない。
「浄」は悪いことをしないことをしないように心がける。
そうするためには「浄」という段階で修練すると分かってきます。
増田先生の本に書いてありますように、心が安定して念訣すると自然と雑念が無くなる。
例を挙げて言いますと、静功をやるとき、形がそうなっていても、音楽が流れていても、
自分の心が他のことを考えている。雑念が生まれてくる。「家の方が、」「子供のことが、」
というような雑念が入ってくるのが普通です。そういったことが多いんです。
それを払い出すには念訣。念訣を忘れるとそうなる。十字真言を念訣すると、雑念が
だんだん減っていきます。十字真言を唱えて、竅穴を守るというやり方で静功をやらないと、
雑念が入りすぎて自分が寝てしまうとか、全然違うことを考えてしまうことになりやすいです。
同じ修練者でも人によって上達に時間がかかる、かからないということがあります。
早い人は衝関できる人。先生に言われた通りに修練する。下丹田、尾閭関を守るときは、
念訣を忘れずに竅穴をに金津玉液(三元エネルギーを含んだ唾液)を送るとしたら、
きれいにそこに送り、「観心」「念訣」「守竅」という3つを一つも忘れずにちゃんと
やればそうなります。尾閭関もそうです。尾閭関にエネルギーが貯まれば、衝関の効果
にもなります。
修練の時、時間が長いことよりも、どれくらい自分をきれいにできるかが大切です。
雑念というのは、鏡の汚れみたいなもので、汚れた「心」を持っていると、「心」と
「竅穴」が一致せず、修練の効果が無いはずです。雑念はすべて埃と考えて、本当に
きれいな「心」を持って竅穴をちゃんと守ってやると、時間に関係なく早くなります。
先天的な話で言えば、そういう「心」になって初めて人間が先天の呼吸が戻ってきます。
後天の呼吸は口と鼻でしますが、先天の呼吸は修練者には、胎息という言い方をします。
胎児の息です。毛孔竅穴で呼吸する。きれいな心でやると毛孔竅穴で静かに呼吸するように
なります。
ある人は修練すると下丹田の竅穴が感じられる。実際に竅穴でエネルギーが跳ねるとい
うのが分かってきます。それが集中力。きれいな心で雑念無く修練するとわかりやすい。
自然と後ろへ、尾閭関にエネルギーが移行するのがわかります。沢山の修練者で実際の
体験を持っています。
以前に修練するとき、てい先生の奥さんのお父さんと一緒に勉強しました。
お父さんは、静功で気持ちよかったと言いましたが、実際に確認したら、修練するときに
時々目を開けて、「家で水道の水はちゃんと閉まっているか?」という心配事があって、
また続けてやっていたら、こっちの目も開けて、「誰か入ってきたか?」というような
調子でやっていました。
こういう修練は雑念が多すぎて、修練とは言えません。いくら自分が気持ちがよいと言っ
ても、座ることで気持ちがいいというだけで、修練というレベルとは全然違います。
修練とは言えません。
元極学を勉強したいと意欲は一応あるのですが、自分は修練できずに結果的に貫頂でエ
ネルギーをもらうだけで、張先生が大連に来る度に貫頂に行きました。毎回毎回エネルギ
ーをもらって、しかし自分で自分自身のエネルギーに変えることはできないから、他人
によって他人の手伝いによって修練する形になりますが、自分自身のエネルギーを作るこ
とはできませんでした。今は亡くなっています。昔の話です。
中国でもこういう人が多いです。率直に言いますと。私の周りにもこういう人が多いで
す。
修練はしたいけど、なかなか実現できない人が多い。自分は自分で、慧心で一緒にはなっ
ていない人がたくさん存在します。一番目で「心印」の話をするのがそれなのです。修練
には「心」を無くしては何もできません。形だけになってしまいます、「心」を持ってい
ないと、修練ができない。「心」にちゃんと自分の印鑑を押して、それをいつまでも「心」
と体を一緒にさせる。そうなって初めて雑念がない。きれいな心での修練に変わります。
「心」があって竅穴を守る。音楽が耳から入り、きれいな自分になります。どれだけ
上手くできたか、それを検証する方法としては、自分の唾液がどれくらいの量出るか、ど
れほど自分の唾液が甘いかによって検証します。修練がうまくいけば、唾液が甘くなります。
「心」を使って修練すると唾液が甘くなるのです。
張先生は、お母さんから元極を教わっています。張先生の話では下丹田を修練するだけで
二年間かかりました。何よりも根本的な話は、竅穴と「心」が一緒になるということです。
これを覚えた上で、今度修練するときは「心」と竅穴が必ず一緒にということを心がけて
やります。そうやっているうちに自分の唾液が甘く感じるようになります。そういう形で
やっていると楽な気持ちになります。気分がよくなります。以上が「心印」のお話でした。

次は「信定」の話になります。信用の「信」です。これが「道」の源であり、また「功
徳」の母であるのです。「信」があって初めて「功徳」ができるという考え方です。人間の
善根と言いますが、人間の全てのいいことが、善い根はすべて「信」によって養われ、
「信」があって「善根」を養うという話です。この「信」はいったい何であるかと言うと、
認めるというか、そう思う、正しいということ、「信」は何を意味しているかと言うと、
信じること。信じないとこういうことがないのです。信じることで初めて「功徳」とか、
よいことが生まれてきます。
正しく信じることで初めて、いい念力、正しい考え、正しい行動、正しい覚悟、正しい
結果という流れになります。一番のもとが「信」であります。周りにもそういう人がいま
す。元極を勉強して、信じる人と信じない人がいます。信じない人は躊躇して、これは正
しいのか。半信半疑の人もいます。そういう信用しないと、今日はこれを学習し、明日は
またいいかと。そういう半信半疑でやると何年経っても上達できません。逆にちゃんと信
じてやっているうちに、その方が効果的には早くなります。
最初てい先生も元極学に接して勉強するときは、当時は中国でたくさんの気功の種類が
あります。人を倒すような気功。気を送れば物が動く。目で見るだけで砂を運んだり、
水をもってくるような超能力、硬気功というものがあります。友達が紹介してくれて、そう
いうのがあるよと紹介してくれたことがあります。そういうものを見て、私は全然自分の
信念を動かさず、元極オンリー、集中して勉強してきています。
なぜ私がそういう風に間違いなく元極を信じたかというと、この掛け軸に書いてあるよ
うに、私の心を以て天地に合わす。この体を以て元極に貢献すると強く思っていました。
元極学は人類に貢献をもたらすという話を非常に素晴らしいと思っています。信じた上で
勉強する。増田先生が作ったテキストがありますので、それに基づいてどんどん自分の理
論のレベルをアップさせる。元極学は一つのシステムです。理論がしっかりしていて方法
もしっかりしている。一つのシステムになっています。システムをしっかり身につければ
、全てが解決できる。最初初心者が、私がこれを勉強する目的は病気を治したい、私は長
生きしたい。私は超能力を身につけたいなど希望をもって入っているかもしれません。
しかし、そういう小さい目的をもってやると、逆にたどり着きにくい。反対の方でちゃんと信
じ込んでこういう「浄定観運信」という理論に基づいて、一つ一つ合わせて勉強していく
と、最初の小さい目的は知らないうちに達しているということになります。
理論の方が少し深すぎるかもしれませんが、言わないといけないというお話です。付け
加えてこれを説明します。「正信」正しく信じることによって、彼岸に登れます。川の向
こう側。正しく信じることによって永遠に逍遙楽をもらえます。付け加えて言いますが、
先ほど「反省」という話をしましたが、修練者は旧暦の1日、3日、13日、15日の4つの日
に、夜中の23時から1時の間で修練します。こういうときに修練する時は、「反省」の心
をもって修練します。反省すると心が楽です。反省しないと、心が何となく楽にはなれま
せん。
今度は元極功法の特徴をいくつか話します。まずは「胎息」です。毛孔竅穴を開いてす
る呼吸です。次は「性命」です。有形の体と無形の性です。これは先天、後天のことです
。十字真言によって後天から先天に戻ると書いてあります。まずは「胎息」の話をします。
これは先天の呼吸です。人間は先天で元気いっぱいで生まれてきて、だんだん成長して大
きくなり、周りと接します。六情七欲が出てきます。自然界の方でも、色々風だとか、雨
だとか、悪影響も受けて、後天に入ります。いっぱいエネルギーをもってきた先天のもの
はもう増えないので、だんだん後天によって減っていきます。後天の悪いものによって人
間が病気になったり、気分が悪くなったりということになります。後天的な影響を払い出
すには、方法論としては先天の「胎息」を探し出す。毛孔竅穴の呼吸法を身につけると、
後天から先天に帰ることになります。それで少し先天に近くなり、人間の体の病気がなく
なります。
どうやって胎息、毛孔竅穴の呼吸ができるかというと、ポイントは「念訣」と「守竅」
です。それが心と竅が一つになれば、胎息ができます。修練「静功」をやった後には歌っ
ていますが、音楽を聴いてそれが十字真言を歌っているということを忘れてはいけません
。念訣というのは、十字真言です。帯功、静功会をやるときには、いつも念訣しながらや
っていました。念訣を忘れると単に座るだけでは、エネルギー、パワーは生まれません。
いったい「胎息」、毛孔竅穴の呼吸はどういうものであるか、しつこく考えると自分の口
と鼻を閉じてやるのか。大間違いです。自分が静功をやってそういう状態に入ると、念訣
によって残ったあるものが十字真言、念訣があります。無いものは自分の雑念です。そ
うなって初めて楽な安定した体になります。そういうのが、毛孔竅穴による呼吸、「胎息」
と近いものになります。「胎息」はあくまでも状態です。こういう状態になるためには、
繰り返し言いますが、「観心」「守竅」という形でこういう状態になります。
こういう状態は修練者が求めるものでは無く、やっているうちにそうなります。
歴史上では、唐の時代に「げんしょう」という僧が、インドにいってお経をもらって
くる。西遊記で唐のお坊様がお経をもらってくる。本当の人物です。
仏教を研究する有名な大師です。
皇帝に派遣されて本をもらってくる。西の方から行きますが、途中で自分の弟子を何人かもら
いました。途中で別のお寺で修練者をみつけて、一人の修練者が何ヶ月も修練を続けてい
ました。その人が弟子入りをした。弟子が最終的に大きな修練者として成功しました。な
ぜ成功したかというと、定める能力がありました。何ヶ月間も洞窟に入って修練した経験
した経験があったから。そういう定力、定める力があったからこそ、最終的な修練になり
ます。これは実際する話です。
人はいつも前進しないといけません。先生によって引っ張られて次にいかないといけま
せん。そのお弟子さんがずっと洞窟に入って、同じことだけやっても成功しません。です
から常に前進することを忘れずにやっていきます。「こざ」と言いますが、同じことをず
っとやっていると枯れてしまいます。という言葉です。一部、二部、三部(階む、階ひと、
階ふた、階み)という形で前進するということを忘れないでやっていきます。
先ほど胎息、先天の呼吸に戻りまして、自然に自分の口と鼻の息が軽くなります。代わ
りに毛孔竅穴の呼吸が蘇ってきます。そういうときになると、気づいて欲しいのは、三門
、百会、天門。足の裏では湧泉、地門。労宮、人門。この3つを開けることも考えます。
それによって、天地、宇宙とエネルギーを交換します。